TOP > 恋せよ、オトメ。 浅野妙子・連載エッセイ
「無縁死」とは何か。
自分の死を「孤独で寂しい死」と捉えれば、
それは「無縁死」になりうるが、
そう捉えなければ、そうではない。
NHKのドキュメンタリーで「無縁死」という現象が取り上げられ、大反響を呼んだという。
番組では、家族も友人もなく孤独に死に、無縁仏として葬られた人たち、
あるいはそんな最期を予期して怯える人たちの人生がクローズアップされていた。
すると、三十代、四十代のまだ若い世代が「無縁死」というキーワードに敏感に反応した。
日本では、この世代に独身者が圧倒的に増えている。
親が死ねば一人になってしまう。
血縁、地縁から切り離されて、都会の片隅でたった一人、死を迎える人の姿が「他人ごとじゃない」と、
深刻に受け止められたのだ。
私の周りにも、アラフォー、アラフィフの独身者は大勢いる。そういう人たちに、無縁死について聞いてみると、意外にも数人から、
「そんなのあたりまえ。別に恐くない」という答えが返ってきた。
たとえば私の友人に、六十代で書道家のリョーコさんという人がいる。
彼女は一度は結婚しているのだが、三十才の時に事故で夫に死なれ、生まれたばかりの子供にも病気で死なれた。
以来、独身。
というと寂しすぎる人生に聞こえるけれど、本人に全然そんな影はない。
いつ会っても、自然体で、明るく、恬淡としている。
両親は既に亡い。
友人が何人かいる。
五年越しの恋人がいるが、海外に住んでいて、会うのは三ヶ月に一度程度。
彼も独身だが、根っからの風来坊タイプで、二人の間に将来の話は全く出ない。
彼女はそれを良しとしている。
相手を縛る気も頼る気もないし、今のままが気楽でいい。
好きなことはやってきたし、いつ死んでもいい。
――そんなふうに言うのだ。
近所の人が朝、自分に挨拶してくれる、
その気持ちの中にも愛はある。
実際、数年前インドネシアで大津波があった時、彼女はマレーシアの海岸のホテルに滞在していて、
何日か連絡が取れず、周囲を冷や冷やさせた。
私も心配したのだが、一月後に帰ってきて
「それで死んじゃったら、それはそれでしょう」と、ケロッとしていた。
そんな彼女の顔を見ていると、「無縁死」っていうのは、実に主観的な言葉だなとすら思えてきた。
つまり、人が予期される自分の死を、「孤独で寂しい死」と捉えれば、それは「無縁死」になりうるが、
そう捉えなければ、そうではないということだ。
家族・親子という縦の繋がりを失っても、人には横の繋がりが残る。
友人、知人、ご近所との、ささやかといえばささやかな繋がり。
家族を持たず、あるいは家族を失って年老いたとき、友人と濃く深い繋がりが持てればそれに越したことはない。
でも、たとえ淡いものであっても、人との横の繋がりを大切にして、自分なりにその中で居心地良く生きられれば、人は自分を孤独だと感じないです
むのかもしれない。
九十八才で天寿をまっとうされた宇野千代さんが、晩年、新聞に書いておられたコラムの文章を思い出す。
確か、「愛はいたるところにある」というような文章だった。
近所の人が朝、自分に挨拶してくれる、その気持ちの中にも愛はある。
隣の夫婦が月に一度くらい、自分の髪を切りに来てくれる、その行為の中にも愛はある。
その愛に感謝しつつ生きていきたいと、文は綴られていた。
たくさんの人が独身のまま老いを迎えるであろうこれからの日本では、
人との横の繋がりを補強してあげるようなシステムが必要になってくると思う。
でも、やっぱり最後には、自分を救うのは自分自身の心でしかないのだろう。
今、家族のいる私も、もしかしたら死ぬときは一人かもしれない。
それまでに、周囲にあるささやかな愛を拾って、
心豊かに生きていけるような、生きるためのワザを身につけていたいものだと思う。
(Oggi2010年9月号掲載 イラスト/大橋美由紀 本誌デザイン/十時かの子)
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プロフィール
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'94年に『無言電話』で第7回フジテレビヤングシナリオ大賞にて佳作を受賞後、『ラブジェネレーション』( '97)や、『神様、もう少しだけ』( '98)、『大奥』( '05)、『ラスト・フレンズ』( '08)、『イノセント・ラヴ』( '08)、『八日目の蝉』( '10)、『月の恋人』( '10)など、数々の大ヒット作品の脚本を手がける。
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